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答えがググれても、判断を下すのは自分なのだということ。 [雑記]

「答えがググれる世界」の教育
答えを出してくれる便利なツールがある世界で、それを排除する形で教育を進めるのはあまり意味がないと思います。基礎的な情報はググって手に入れられるという前提で(それをできるだけでも凄いことだと思いますが)、そこから何かを生み出すことを育むような教育に移っても良いのではないか -- そんな風に感じています。
http://akihitok.typepad.jp/blog/2006/08/post_fcef.html


その発端のお話が、下記。

■ ネットと文明 第6部 ヒトはどこへ(1) 30センチの世界(日本経済新聞 2006年8月17日朝刊 第1面)
最小の完全数は6、二番目は28。では三番目に小さい完全数は--。早大こどもメディア研究所客員研究員、戸塚滝登(53)は難題の宿題を小学五年生に出した。狙いは考える力の検証だ。

完全数はその数字を除いた約数の和がその数字に等しい自然数。「頭をどう悩ませたか見たかった」。ところがある児童が提出したノートに鉛筆の跡はない。「三番目は496」。ネットで検索したページのコピーがそのまま張ってあった。


まず、この研究員が浅はかだったな、ってのが正直な感想。

手軽さが好奇心を鈍らせ、近道への欲求が募る。


そう思いがちなのはわかるが、この問いに関してはそれで十分だった、というだけの話で。
考える力をみたければ、答えを求めさせるのはではなくて
その解にいたる過程を筆記させれば良かっただけの話だな。
もちろん、中にはその過程をググッて写してくる輩もいるだろうけど。
それを想定して、そうは問屋が卸さないように問題を作るのが、研究者の手腕だ。

情報ツールの発展によって、こうやって簡単に答を得ることができるようになり、
「検索して答えを出すこと」に対して否定・批判を件の新聞記事の記者はしているようだが、
それは単純すぎる。

検索して答えを出す。
それで解が求められるので有れば、それはそれでいい。
計算機で計算できるのと同じだ。

要は、思考力や発想力の手助けとして情報ツールが使えるようになればいいだけの話。
答えだけ必要であるなら、好奇心なんてイラネ。
近道があれば十分。
その答えに行き着く過程に目がいくように=好奇心が持てるようにするのが、
教育というものの意義だし、それが知識から知恵へと変えていく手続きだ。
そして、検索して出た答えが正しいかどうかの判断を個人個人くだせるようにするのが、
情報社会のリテラシーに繋がるのではないかね?

だいたい、古今東西、発明は「いかに楽をするか、手間をはぶくか」というところから
生まれるのが常だしね。(もちろん、思考力・発想力の基盤が必要だがな)

手が抜けるところは手を抜いて、
その分の余力を想像力や発想力や試行錯誤にまわせばいい。
そういった「学習の緩急」を教えることもまた教育だろう。

つまり、この設問を投げかける方がそこまで想定できなかった、というだけの話で、
情報ツールの利用を想定して問題を作るか、
もしくは一切の情報ツールを使わせないように、PC等に触れられない環境でやらせるなど、
研究者側が考えるべきだった。
「検索して答えを出すこと」に対して批判する前に、
「設問想定の不十分さ」を反省するべきだった、とな。


追記(2006/09/07):

「ググる」子供と、「ググれない」子供
僕個人としての考えでは、小学校6年生になったら、どんどんグーグルは使わせた方がいいと考えている。少なくとも、娘やその同級生の世代が大人になるころには、インターネットと英語は必須の世の中になっているはずだ。しかも、インターネットの“世界”は危ないことが多い。だから、早いうちから親の監視下で、良いことも悪いことも経験させておいた方がいい。

 実際、娘専用のパソコンには、早くも怪しげなメールがたくさん届くようになっている。何をすると何が起きるか──実際に体験させながら、自分の身を守る方法を教えていかなければならない。
http://premium.nikkeibp.co.jp/itm/col/suzuki/44/index.shtml


まさにその通りだよなぁ。

あくまでも「ツールだ」ということをキッチリ理解させるべきで、
「ツール」であるからには、それには良い面・悪い面の両側面が必ず存在する、
ということを教えるのも、
保護者あるいはそれに類する大人の責任になりつつあるのだろうな。


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